造園、庭のリフォーム、植木・庭木の管理のことなら神奈川県横浜市の【中山造園】にお任せください

このたび、ホームページをリニューアルいたしました。
ここにのせている、仕事の写真はすべて我々が手がけたものです。
庭、造園に関わる仕事は、材料の変化や流行、住宅事情の変化でその時々で代わるものです。
最近のお客様のニーズに合わせた、またご相談いただくことの多い仕事を中心に、ホームページ上で紹介させていただいております。
庭のデザイン、また材料や道具はその時々で進化し変化するものですが、この仕事の基本は変わりません。
特に自然のままの素材、庭木や庭石を使うときの配置や据え方の基本は、何百年も前から変わらず、またこの先も永遠に変わらないでしょう。
どの業種でもそうですが、技術を身につけるということは、よい親方や、先輩職人の指導があって、その仕事の何回もの繰り返しで身についていくものです。
中山造園は三代にわたって培った、実績、信用、技術が中山造園の、基礎となっております。
そして五十年、六十年にわたって仕事をさせてくださるお得意様があって、これだけの仕事の経験がつめたのだと思っております。
最近は、大きな庭の造営というより、庭の技術を生かして、小さなスペースを生かしてほしいという様な仕事が多いのですが、我々の手がけた仕事をホームページ上で紹介していきたいと思っております。
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中山造園では代々受け継がれてきた庭づくりの技術によって、大きな造園工事から狭小スペースの庭づくりまで、末永く楽しめる和の空間を創造いたしております。

中山造園は、現在の横浜市港北区新羽町にて、農業をしながら植木の生産をしていた初代中山杉太郎が、本格的に植木の生産販売を行なうために、明治の初め現在の横浜市神奈川区六角橋六丁目、当時の六角橋北町に移り住んだところから始まります。
当時、この町では植木の生産や販売に携わる人が多く集まり始めており、昭和の初期には植木の市が立ち、界隈は「植木村」と呼ばれていたそうです。また、植木を生産販売する人、庭の手入れを専門にする人、庭をつくる人と、造園業といっても分野で分かれているような状況でした。
○○造園や今の会社といったような形式をではなく、庭を造っている現場に生産した植木を植え込みに行った際には植え込み以外の庭づくりの仕事を手伝う等、職人同士の仕事の交流がありましたので、その中で自分の得意分野以外の仕事を習得して行き、現在のような造園業のような形態が出来あがったと聞いています。
中山造園も初代杉太郎から二代目平太郎へと代わり、屋号も「仲平」と名乗るようになっていました。時代は戦争から戦後の高度経済成長になり、庭の仕事に携わる業者全体も住宅の増産等で活況を呈してきました。
その頃から本格的な造園業として、中山造園も中山造園としての看板を上げ、個人邸を専門にお得意様を増やして行きました。今現在、お付き合いさせて頂いているお得意様も、二代目の頃からのお得意様が多くいらっしゃいます。
また、昭和三十年代に入ると、県や市から公園等の公共仕事が多く発注されるようになり、同業者の多くがより大規模なこれらの仕事にシフトして行きました。戦前より一緒に植木を掘ったり、庭石を動かしていた職人仲間の多くが公共事業へと参入していく中で、中山造園では公共事業や大手建設会社の下請けは大変景気がよかった時期なのですが、一切方向性を変えることなく昔ながらの個人邸専門の仕事に専念し続けて参りました。
中山造園が施主様やお得意様と長い年月、そして二代三代とお付き合い頂いているのも、初代から受け継がれた技術を大事に守り続けてきたからだと考えております。これからも新たな世代へ技術の伝承はもちろん、お客様とのお付き合いを大切に守っていきたいと考えております。










